2017年3月10日金曜日

バビロン第1王朝

MapMaster(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/Hammurabi%27s_Babylonia_1.svg/1177px-Hammurabi%27s_Babylonia_1.svg.png)

年代:BC1894-BC1595頃

●メソポタミアの覇権を握った、バビロニア最古の王朝「バビロン第1王朝」

イシン・ラルサ時代、数ある都市の1つにしか過ぎなかったバビロンで、スムアブムがバビロン第1王朝を開く。
スムアブムは、周辺の勢力に勝利を重ね、バビロンの地盤を固めていった。

6代目の王であるハンムラビは、北のアッシリアと同盟を組み、ラルサからイシンを奪取した。
これを皮切りに、ラルサやアッシリアなど重要都市を次々と征服した。また、マリを破壊してマリ争奪戦に終止符を打った。
政治面でもハンムラビの功績は大きく、ハンムラビ法典を発布して国を豊かにしたことは広く知られている。

バビロン第1王朝が支配した広大な領土や、その豊かな文化はバビロニアと呼ばれ、カッシート王朝やアッシリア帝国をはじめとする多くの勢力に受け継がれてゆくことになる。

●その後のバビロニア

ハンムラビの死後、息子であるサムス・イルナが王位を継いだ。
サムス・イルナは各地で起こった反乱に対処しきれず、バビロン第1王朝は多くの領土を失った。
さらに、一部の人々が弱体化したバビロン第1王朝から独立し、海の国第1王朝(バビロン第2王朝)を建てた。
混乱の続くバビロン第1王朝にヒッタイトが侵攻し、ついにバビロン第1王朝は滅ぼされた。

まもなくバビロンはカッシート人の支配下に入り、カッシート人がバビロン第3王朝を開く。

キクラデス文明


Prof saxx
(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/93/Cycladic_idol_large_retouched.jpg)

年代:BC3200-BC2000頃

●ギリシャ本土やクレタ島と並行して発展した文明「キクラデス文明」

聖なる島といわれるデロス島を囲っているキクラデス諸島に花開いた文明。
ギリシャ本土のヘラディック文明や、クレタ島のミノア文明と並行して、独自の文化を築いた。極度に様式化された、平坦な大理石の人形が有名である。

次第に、より進歩していたミノア文明の影響を受けるようになり、紀元前2000年頃にはミノア文明と同化した。

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ルガルザゲシ
2017/3/10 制定

下エジプト



年代:BC3500-BC3150頃

●ナイル川下流地域で栄えた文明「下エジプト」

エジプトは、ナルメル王によって統一されるまでは、ナイル川上流地域と下流地域で別々の文明が栄えていた。
各地域では多くの勢力が争いあっていたが、紀元前3500年頃には上エジプト、下エジプトの2勢力にまとまった。

紀元前3150年頃、下エジプトは上エジプトのナルメル王に征服され、上下エジプトは統一された。

エジプト第1中間期に、下エジプトはメンフィスを拠点とし、メンフィス・エジプト(エジプト第10王朝)として上エジプト(テーベを拠点としたエジプト第11王朝)と覇を争ったものの、敗れてしまった。

エジプト第2中間期には、下エジプトは異民族ヒクソスによって築かれたエジプト第15王朝の支配下にあったが、上エジプトのエジプト第17王朝によって滅ぼされた。

しかし、下エジプト(エジプト第26王朝)が上エジプト(テーベ・エジプト)を破り、エジプトを統一したこともあった。

現在の下エジプト(ナイル川下流地域)には首都カイロがあり、エジプト経済の中心地である。

上エジプト



年代:BC3500-BC3150頃

●ナイル川上流地域で栄えた文明「上エジプト」

エジプトは、ナルメル王によって統一されるまでは、ナイル川上流地域と下流地域で別々の文明が栄えていた。
各地域では多くの勢力が争いあっていたが、紀元前3500年頃には上エジプト、下エジプトの2勢力にまとまった。

紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王は下エジプトを征服し、上下エジプトを統一した。
古代エジプトの歴史は、紀元前3150年頃にナルメル王の築いたエジプト第1王朝から始まり、紀元前30年頃にローマ帝国によって滅ぼされたプトレマイオス朝に終わる。その間、およそ3000年もの間、古代エジプトは栄えた。

また、上エジプトのテーベ(現在のルクソール)は、アメン信仰の中心地としても栄えた。

現在の上エジプト(ナイル川上流地域)は下エジプト(ナイル川下流地域)と比べて発展が遅れている。

2017年3月9日木曜日

ラルサ


年代:BC1940-BC1700頃

●イシンを滅ぼし、エラムやバビロニアと覇を競った王国「ラルサ」

イシン第1王朝に対して反乱を起こし、独立を果たしたラルサ。
ラルサ5代目の王であるグングヌムの時代には、イシンからウルを奪取することに成功し、イシン・ラルサ戦争において優位に立った。

その後も戦い続け、ついにイシンとエラムを破り、ラルサは南部メソポタミアの覇権を握った。
しかし、バビロン第1王朝のハンムラビ王との戦争では苦戦をしいられ、最終的に敗れてしまい、ラルサは滅亡した。

●その後のイシン

バビロン第1王朝支配下のラルサにおいて、リム・シン2世という人物がラルサで反乱を起こして独立したものの、バビロン第1王朝によってすぐに鎮圧されたとされている。

イシン



年代:BC1953-BC1730頃

●ウルの滅亡後、最大の王国として栄えた「イシン」

イシン第1王朝の始祖であるイシュビ・エッラは、元々はウル王イビ・シンの配下だったという。
イシュビ・エッラはイビ・シン王に命じられてイシン市に食料調達に出かけたが、イシンで反旗を翻したとされている。

ウル第3王朝滅亡後、イシンはウルを占領したエラムと戦いを重ね、ついにエラムを撃退した。
イシンは南部メソポタミアで絶大な力を持ったが、徐々に新興国家であるバビロン第1王朝ラルサに圧迫され、ついにラルサによって滅ぼされた。

●その後のイシン

イシンに勝利したラルサであったが、まもなくバビロン第1王朝のハンムラビ王に敗れ、滅亡した。
以後、イシンはバビロンの重要都市として繁栄した。

紀元前1150年頃、マルドゥク・カビト・アヘシュによって、イシンは再び独立した。
これがイシン第2王朝とされているが、バビロンを拠点にしていたため、バビロン第4王朝とすべきだという見方もある。

イシン第2王朝の王であるネブカドネザル1世は、エラムに壊滅的な被害を与えるなど大きな功績を残した。
しかし、アッシリアの勢力拡大に伴いイシン第2王朝は衰退してしまった。