2017年3月7日火曜日

グティ王朝



年代:BC2200-BC2070頃

●アッカドを崩壊させ、メソポタミアを支配した「グティ王朝」

グティ人の詳細についてはほとんど知られておらず、謎が多く残っている。
自らを神と称した2代目アッカド王、ナラム・シンへの天罰として差し向けられたという説話があるが、大規模なグティ人の侵入が始まったのは3代目アッカド王、シャル・カリ・シャッリの時代からである。

シャル・カリ・シャッリはグティ人を何度も撃退しているが、その努力も虚しく、ついにグティ人によってアッカド帝国は滅ぼされた。

グティ人によるグティ王朝の治世は、暴力の時代とも言え、無政府状態に近かったと言われている。

シュメールの都市国家であるラガシュは親グティ的な政策をとり、グティ王朝の時代に独立を保っていた稀有な都市国家である。

グティ人最後の王であるティリガンは絶大な権力を持ち、略奪などを繰り返していたが、ウルク第5王朝の王であるウトゥ・ヘガルによって倒され、グティ王朝は終焉を迎えたとされる。

グティ王朝滅亡後は、ウトゥ・ヘガルの親族でウルの軍事司令官であったウル・ナンムが権力を握り、ウル第3王朝を建てた。

●グティ人についての考察

近年の研究では実際にはグティ人は単一の政治集団ではなかったし、その勢力範囲は非常に限定的であったと推定されている。ウトゥ・ヘガル王によるグティ人の撃退という歴史的事件も後代の説話にのみ見られるもので、現在までの所同時代史料からその事実を読み取ることはできない。
現代の我々と同じように古代の人々もまた各種の歴史観を持ち、それにそって歴史を記述した。シュメール人やアッカド人達は、アッカド王朝末期の混乱の元凶がグティ人という蛮族の侵入にあると見た。今日、このようなメソポタミアの人々の見方を「蛮族侵入史観」と呼ぶ学者もいる。しかし現在ではアッカド王朝末期の政治混乱はメソポタミア各地の都市の自律的発展による社会変化が強く影響しているとして、グティ人による「混乱」を過大評価すべきでは無いとする見解が次第に一般的になりつつある。
(wikipedia「グティ人」より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%86%E3%82%A3%E4%BA%BA 2016年3月26日 (土) 15:12)