2017年3月10日金曜日

バビロン第1王朝

MapMaster(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/Hammurabi%27s_Babylonia_1.svg/1177px-Hammurabi%27s_Babylonia_1.svg.png)

年代:BC1894-BC1595頃

●メソポタミアの覇権を握った、バビロニア最古の王朝「バビロン第1王朝」

イシン・ラルサ時代、数ある都市の1つにしか過ぎなかったバビロンで、スムアブムがバビロン第1王朝を開く。
スムアブムは、周辺の勢力に勝利を重ね、バビロンの地盤を固めていった。

6代目の王であるハンムラビは、北のアッシリアと同盟を組み、ラルサからイシンを奪取した。
これを皮切りに、ラルサやアッシリアなど重要都市を次々と征服した。また、マリを破壊してマリ争奪戦に終止符を打った。
政治面でもハンムラビの功績は大きく、ハンムラビ法典を発布して国を豊かにしたことは広く知られている。

バビロン第1王朝が支配した広大な領土や、その豊かな文化はバビロニアと呼ばれ、カッシート王朝やアッシリア帝国をはじめとする多くの勢力に受け継がれてゆくことになる。

●その後のバビロニア

ハンムラビの死後、息子であるサムス・イルナが王位を継いだ。
サムス・イルナは各地で起こった反乱に対処しきれず、バビロン第1王朝は多くの領土を失った。
さらに、一部の人々が弱体化したバビロン第1王朝から独立し、海の国第1王朝(バビロン第2王朝)を建てた。
混乱の続くバビロン第1王朝にヒッタイトが侵攻し、ついにバビロン第1王朝は滅ぼされた。

まもなくバビロンはカッシート人の支配下に入り、カッシート人がバビロン第3王朝を開く。

キクラデス文明


Prof saxx
(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/93/Cycladic_idol_large_retouched.jpg)

年代:BC3200-BC2000頃

●ギリシャ本土やクレタ島と並行して発展した文明「キクラデス文明」

聖なる島といわれるデロス島を囲っているキクラデス諸島に花開いた文明。
ギリシャ本土のヘラディック文明や、クレタ島のミノア文明と並行して、独自の文化を築いた。極度に様式化された、平坦な大理石の人形が有名である。

次第に、より進歩していたミノア文明の影響を受けるようになり、紀元前2000年頃にはミノア文明と同化した。

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ルガルザゲシ
2017/3/10 制定

下エジプト



年代:BC3500-BC3150頃

●ナイル川下流地域で栄えた文明「下エジプト」

エジプトは、ナルメル王によって統一されるまでは、ナイル川上流地域と下流地域で別々の文明が栄えていた。
各地域では多くの勢力が争いあっていたが、紀元前3500年頃には上エジプト、下エジプトの2勢力にまとまった。

紀元前3150年頃、下エジプトは上エジプトのナルメル王に征服され、上下エジプトは統一された。

エジプト第1中間期に、下エジプトはメンフィスを拠点とし、メンフィス・エジプト(エジプト第10王朝)として上エジプト(テーベを拠点としたエジプト第11王朝)と覇を争ったものの、敗れてしまった。

エジプト第2中間期には、下エジプトは異民族ヒクソスによって築かれたエジプト第15王朝の支配下にあったが、上エジプトのエジプト第17王朝によって滅ぼされた。

しかし、下エジプト(エジプト第26王朝)が上エジプト(テーベ・エジプト)を破り、エジプトを統一したこともあった。

現在の下エジプト(ナイル川下流地域)には首都カイロがあり、エジプト経済の中心地である。

上エジプト



年代:BC3500-BC3150頃

●ナイル川上流地域で栄えた文明「上エジプト」

エジプトは、ナルメル王によって統一されるまでは、ナイル川上流地域と下流地域で別々の文明が栄えていた。
各地域では多くの勢力が争いあっていたが、紀元前3500年頃には上エジプト、下エジプトの2勢力にまとまった。

紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王は下エジプトを征服し、上下エジプトを統一した。
古代エジプトの歴史は、紀元前3150年頃にナルメル王の築いたエジプト第1王朝から始まり、紀元前30年頃にローマ帝国によって滅ぼされたプトレマイオス朝に終わる。その間、およそ3000年もの間、古代エジプトは栄えた。

また、上エジプトのテーベ(現在のルクソール)は、アメン信仰の中心地としても栄えた。

現在の上エジプト(ナイル川上流地域)は下エジプト(ナイル川下流地域)と比べて発展が遅れている。

2017年3月9日木曜日

ラルサ


年代:BC1940-BC1700頃

●イシンを滅ぼし、エラムやバビロニアと覇を競った王国「ラルサ」

イシン第1王朝に対して反乱を起こし、独立を果たしたラルサ。
ラルサ5代目の王であるグングヌムの時代には、イシンからウルを奪取することに成功し、イシン・ラルサ戦争において優位に立った。

その後も戦い続け、ついにイシンとエラムを破り、ラルサは南部メソポタミアの覇権を握った。
しかし、バビロン第1王朝のハンムラビ王との戦争では苦戦をしいられ、最終的に敗れてしまい、ラルサは滅亡した。

●その後のイシン

バビロン第1王朝支配下のラルサにおいて、リム・シン2世という人物がラルサで反乱を起こして独立したものの、バビロン第1王朝によってすぐに鎮圧されたとされている。

イシン



年代:BC1953-BC1730頃

●ウルの滅亡後、最大の王国として栄えた「イシン」

イシン第1王朝の始祖であるイシュビ・エッラは、元々はウル王イビ・シンの配下だったという。
イシュビ・エッラはイビ・シン王に命じられてイシン市に食料調達に出かけたが、イシンで反旗を翻したとされている。

ウル第3王朝滅亡後、イシンはウルを占領したエラムと戦いを重ね、ついにエラムを撃退した。
イシンは南部メソポタミアで絶大な力を持ったが、徐々に新興国家であるバビロン第1王朝ラルサに圧迫され、ついにラルサによって滅ぼされた。

●その後のイシン

イシンに勝利したラルサであったが、まもなくバビロン第1王朝のハンムラビ王に敗れ、滅亡した。
以後、イシンはバビロンの重要都市として繁栄した。

紀元前1150年頃、マルドゥク・カビト・アヘシュによって、イシンは再び独立した。
これがイシン第2王朝とされているが、バビロンを拠点にしていたため、バビロン第4王朝とすべきだという見方もある。

イシン第2王朝の王であるネブカドネザル1世は、エラムに壊滅的な被害を与えるなど大きな功績を残した。
しかし、アッシリアの勢力拡大に伴いイシン第2王朝は衰退してしまった。



年代:BC2070-BC1600頃

●東アジア最古の王朝「夏」

中国の最古の王朝でもある夏は、これまで伝説上の存在とされてきた。
しかし、最近になって発見された資料などから、実在していた可能性が高いと言われている。

夏王朝は、孔甲王や桀王の時代に暴政を布いたため民の反発を招き、後に商(殷)を建国する天乙によって倒されたとされる。

夏の建国者である禹は、現在でも中国で崇められている。

エシュヌンナ


年代:BC3000-BC1700頃

●イシン・ラルサ時代の群雄「エシュヌンナ」

エシュヌンナには、紀元前3000年頃から人が住むようになったと考えられている。
アッカド帝国の支配下に入ると、エシュヌンナは交易で栄えた。

その後、ウル第3王朝の支配下に入るが、ウルの衰退に伴い独立を果たした。
イシンラルサバビロン第1王朝、そしてアッシリアなどとしのぎを削り、強国としての地位を確立した。

しかし、長きにわたるバビロン第1王朝との戦争で次第に劣勢となり、弱体化したところをエラムに征服された。
紀元前1750年頃、エラム支配下のエシュヌンナはバビロン軍の攻撃を受け、エシュヌンナはバビロン軍によって破壊されてしまった。

紀元前1700年頃にエシュヌンナは一度復興したものの、再びバビロンに敗れ、完全に滅亡した。

2017年3月8日水曜日

アッカド帝国

Sémhur(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/37/Empire_akkad.svg)


年代:BC2350-BC2150頃

●人類史上初の帝国「アッカド帝国」

メソポタミアのほぼ全域を支配した、史上初の帝国。
サルゴンによって築かれ、ナラム・シンの時代に最盛期を迎えた。
しかし、シャル・カリ・シャッリの代になると反乱が相次ぎ、滅亡を迎えた。

サルゴンは、元々はキシュ王ウル・ザババの家臣であったと考えられている。
彼はウル・ザババを倒してキシュを乗っ取ったのち、ウルク王ルガルザゲシに打ち勝ち、ウルクを征服したとされる。

アッカドとシュメールを統一したサルゴンは、東のエラムや西のマリエブラに攻め入ったと言われているが、西方遠征はナラム・シンによるものであったという説も有力である。

サルゴンの孫であるナラム・シンは自身を神格化し、帝国の全盛期を築き上げた。
しかし、ナラム・シンの孫であるシャル・カリ・シャッリの治世になると、各地で反乱が相次ぎ、グティ人をはじめとする蛮族の侵入が激化した。

シャル・カリ・シャッリは何度か侵入者を撃退したものの、各地で起こった反乱に対処しきれず、ついにアッカド帝国は滅亡してしまう。

アッカド帝国滅亡後のメソポタミアはグティ人が建てたグティ王朝の支配下に入り、無政府状態同様の状態が続いたという。

●その後のアッカド

アッカドの文化はバビロニアやアッシリアなどに受け継がれたが、ペルシア帝国時代に入ると、アッカドの名は消えていった。

2017年3月7日火曜日

ウル



年代:BC3800-BC1940頃

●シュメール人最後の王朝「ウル」

メソポタミア最南部に位置する、シュメールの都市国家。
第3王朝時代にはメソポタミアのほぼ全土を支配し、全盛期を築いた。

●ウル第1王朝(BC3800-BC2500)

ウルは、ウルク第1王朝のあと王権が移った都市とされ、ウルの創始者であるメスアンネパダは、ウルクの英雄王ギルガメシュと同年代の人物であると言われている。
この時代のウルは裕福な都市であったと考えられており、実際に多数の貴金属などが出土している。
後にアワン朝(エラム)の支配下に入った。

●ウル第2王朝

ウル第2王朝について判明していることは、ほとんど無い。

●ウル第3王朝(BC2040-BC1940)

ウル第3王朝は、ウルの軍事司令官であったウル・ナンムによって建てられた。
ウル・ナンムは、グティ人からメソポタミアを解放したウルク第5王朝の王、ウトゥ・ヘガルの親族と考えられている。

ウル第3王朝は、グティ王朝滅亡後のメソポタミアを支配した。
また、史上初めて法典(ウル・ナンム法典)を制定し、大いに繁栄した。

しかし、紀元前1940年に、エラムの侵攻により滅亡した。以降、シュメール人の王朝が出来ることはなかった。

●その後のウル

イシンラルサ時代にはウル第3王朝の後継者を名乗るため、各地の王がウルを取り合あったと言われている。
また、王がウルのナンナ神殿に娘を捧げるという習慣も重要視されていたため、ウルの取り合いに拍車をかけたという。

グティ王朝



年代:BC2200-BC2070頃

●アッカドを崩壊させ、メソポタミアを支配した「グティ王朝」

グティ人の詳細についてはほとんど知られておらず、謎が多く残っている。
自らを神と称した2代目アッカド王、ナラム・シンへの天罰として差し向けられたという説話があるが、大規模なグティ人の侵入が始まったのは3代目アッカド王、シャル・カリ・シャッリの時代からである。

シャル・カリ・シャッリはグティ人を何度も撃退しているが、その努力も虚しく、ついにグティ人によってアッカド帝国は滅ぼされた。

グティ人によるグティ王朝の治世は、暴力の時代とも言え、無政府状態に近かったと言われている。

シュメールの都市国家であるラガシュは親グティ的な政策をとり、グティ王朝の時代に独立を保っていた稀有な都市国家である。

グティ人最後の王であるティリガンは絶大な権力を持ち、略奪などを繰り返していたが、ウルク第5王朝の王であるウトゥ・ヘガルによって倒され、グティ王朝は終焉を迎えたとされる。

グティ王朝滅亡後は、ウトゥ・ヘガルの親族でウルの軍事司令官であったウル・ナンムが権力を握り、ウル第3王朝を建てた。

●グティ人についての考察

近年の研究では実際にはグティ人は単一の政治集団ではなかったし、その勢力範囲は非常に限定的であったと推定されている。ウトゥ・ヘガル王によるグティ人の撃退という歴史的事件も後代の説話にのみ見られるもので、現在までの所同時代史料からその事実を読み取ることはできない。
現代の我々と同じように古代の人々もまた各種の歴史観を持ち、それにそって歴史を記述した。シュメール人やアッカド人達は、アッカド王朝末期の混乱の元凶がグティ人という蛮族の侵入にあると見た。今日、このようなメソポタミアの人々の見方を「蛮族侵入史観」と呼ぶ学者もいる。しかし現在ではアッカド王朝末期の政治混乱はメソポタミア各地の都市の自律的発展による社会変化が強く影響しているとして、グティ人による「混乱」を過大評価すべきでは無いとする見解が次第に一般的になりつつある。
(wikipedia「グティ人」より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%86%E3%82%A3%E4%BA%BA 2016年3月26日 (土) 15:12)

インダス文明

M.Imran(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9a/Mohenjodaro_Sindh.jpeg)

年代:BC3300-BC1700頃

●突如滅亡した、謎多き文明「インダス文明」



Dbachmann(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0c/IVC_Map.png)

最初に発見された遺跡の名前をとって、ハラッパー文明とも呼ばれる。

高度な建築技術を持っていたことが明らかになっており、二階建ての建物や、大浴場があったとも言われている。

インダス文明には絶大な権力を持った指導者や、強大な軍隊がいた痕跡は残っておらず、平和的な都市の集まりであったと考えられている。

ほぼ全ての家屋から水洗トイレが発見されたことや、史上初めて都市間で統一された単位を使用したことからも、高度な文明であったことがわかる。

●インダス文明の滅亡

インダス文明の滅亡理由は謎に包まれおり、現在でも判明していない。
紀元前20世紀頃に起こった気候変動により砂漠化が進み、都市を放棄せざるを得なくなったという説や、アーリア人の侵入、虐殺が原因とする説もある。

ミノア文明


Silar(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/Knossos_Minos%27s_Palace.jpg)




年代:BC3650-BC1400頃

●ヨーロッパ最古の文明「ミノア文明」


User:BibiSaintPol(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/Map_Minoan_Crete-en.svg)

地中海(エーゲ海)南部に位置するクレタ島で栄えた文明。クレタ文明とも呼ばれる。
エーゲ文明の1つとして数えられ、開放的で文化的な文明だったと言われている。
ギリシャ神話に登場する伝説の王ミノスや、その息子であるミノタウロスの物語で有名。

クノッソス宮殿を初めとするミノア文明の宮殿は、外部から簡単に侵入することができた。このことから、当時のクレタ島はある程度平和であったことがうかがえる。

しかし、紀元前14世紀頃、ミノア文明は崩壊してしまう。
これは、火山の噴火や地震などの自然災害による被害や、それに乗じて侵入してきたミケーネ人を原因とする説が一般的である。

●その後のクレタ島

ミケーネ人によりクレタ島の文化は受け継がれ、再びクレタ島は栄えた。(この時期のクレタ島を、ミケーネ文明ではなくミノア文明に含めるという見方もある。)
しかし、紀元前1150年頃、クレタ島に侵入してきたドーリア人の手によってクレタ文化は破壊されてしまう。

現在のクレタ島は、ギリシャ共和国の地方自治体として機能している。

【中世の勢力一覧】

▼アジア

●南詔

南詔

ownwork(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e9/Tang_Dynasty_in_the_8th_century_ja.svg/2008pxTang_Dynasty_in_the_8th_century_ja.svg.png)




年代:AD738-AD937頃

●裏切りを繰り返し、勢力を広げた王国「南詔」

中国から東南アジアにかけて存在した王国。
最盛期には唐を追い詰め、インドシナ半島の一部を征服したものの、クーデターによって滅亡してしまう。

南詔は、当初は雲南に存在していた「六詔」という政治組織であった。
738年、皮羅閣という人物が唐の援助を得て、六詔の実権を握った。皮羅閣は唐より雲南王に冊封されたため、この年が南詔の建国年として知られている。

南詔の勢力拡大に伴い、唐と南詔の関係が悪化し始めたため、南詔は吐蕃と同盟関係を結び、唐に対抗した。
しかし、吐蕃の勢力拡大を危惧した唐が南詔への懐柔工作に乗り出すと、南詔王である異牟尋は吐蕃を裏切り、吐蕃領に攻め入った。

唐と吐蕃の衰退に乗じ、南詔は唐との同盟を破棄。成都を占領し、略奪の限りを尽くした。
その後は東南アジア(インドシナ半島)に侵攻して領土を広げ、南詔王世隆は皇帝を名乗った。

しかし、9世紀に入ると南詔では権臣が権力を握り、王は傀儡と化してしまう。
902年、鄭買嗣の起こしたクーデターにより王室関係者のほとんどが殺され、南詔は滅亡した。

●滅亡後

南詔の滅亡後、鄭買嗣は皇帝に即位し、大長和を建てた。
まもなく大長和やその他の後継国は滅亡し、大理国が建国されることになる。

マリ

MarieLanNguyen(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ef/Ebish-Il_Louvre_AO17551.jpg)


年代:BC2900-BC1759頃

●シュメール最西端の都市国家「マリ」

現在のシリアに存在する、都市国家の遺跡。エブラ同様、2回にわたって、大きく栄えた。

●マリ第1王国時代(BC2900-BC2300)


Sémhur(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e3/First_Eblaite_Empire.png)

マリはシュメールの最西端であり、シリア北部とシュメールを結ぶ玄関口として栄えた。
しかし、紀元前2300年頃に破壊されてしまう。
アッカドのサルゴンが破壊したという説や、ライバルであったエブラに破壊されたという説が有力である。

●マリ第二王国(BC2300-BC1759)


AttarAramsyria(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Third_Mari.png)

メソポタミアの各地で王朝を建てたアムル人であるが、マリもまた、アムル人によって修復され、かつての重要性を取り戻した。
ジムリ・リムの治世でマリは繁栄の絶頂を迎えた。この頃のマリは、世界最大の王宮があることで有名であった。
しかし、ジムリ・リムはバビロン第1王朝のハンムラビに敗北してしまい、独立国家としてのマリは滅亡することになる。

●その後のマリ

マリはしばらく村として存続していたが、ヘレニズムが到来する頃には姿を消していたという。

エブラ


Babur~commonswiki(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f9/Ebla_ziggurat.jpg)

年代:BC3000-BC1600頃

●商業的な都市国家「エブラ」

現在のシリアに存在する、都市国家の遺跡。2回にわたって、大きく栄えた。
15000枚にも及ぶ粘土板が発見されたことで有名。
エブラはイブリウムの治世の間に最盛期を迎えたが、彼は選挙で王を選ぶという慣習を破り、自分の息子を王位に就けた。
そういった専制政治が、衰退に繋がったともいわれている。

●エブラ第1王国時代(BC3000-BC2300)


Sémhur(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e3/First_Eblaite_Empire.png)

エブラ最初の時代であり、エブラが最も繁栄した時代でもある。
商業の重要な拠点として栄え、同じく商業的な都市国家であるマリがライバルであった。
イブリウムやその息子、イッビ・スィピシュの治世の間に全盛期を迎えたが、その後衰退していった。
エブラ第1王国滅亡の理由は明らかではないが、慣例破りである世襲王政の導入や、王の権利の拡大など、専制統治による影響ともいわれている。
また、アッカドのサルゴンやナラム・シンにより破壊されたとする説も有力である。
その他にも、マリとの長きに渡る戦争の末、一時はマリを征服したものの、反攻を受けて滅亡したという説もある。

●エブラ第二王国(BC2300-BC2000)


Sémhur(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/81/Second_Eblaite_Empire.png)

この時代についてはほとんど情報が残っていない。
後にウル第3王朝に従属したともいわれている。

●エブラ第3王国(BC2000-BC1600)

イビット・リムによって建てられた王国。
アムル人の国家で、当時重要な都市国家であった。エブラ2度目の繁栄の時代と言われている。
しかし、紀元前1600年頃に、ヒッタイトによって破壊される。
この破壊からは立ち直れず、以降は小さな村として存続することとなる。

●その後のエブラ

その後、エブラは村として存続していたが、7世紀には放棄された。
それから1200年もの時が流れ、1964年、ローマ・ラ・サピエンツァ大学の考古学調査チームによって古代都市国家としてのエブラが発見される。

2017年3月6日月曜日

このブログについて

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ルガルザゲシ
2017/3/6 制定
2017/3/7 改定

【古代の勢力一覧】

▼アジア

●アッカド帝国
●イシン

ウルク

Zunkir(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/64/Meso2mil.JPG)

年代:BC4000-BC1800頃

●シュメールの都市国家「ウルク」

メソポタミア最南部に位置する、シュメールの都市国家。「イラク」という国名の由来にもなったといわれる。
「英雄王」ギルガメシュや、シュメールの都市国家のほとんどを支配下に置いたルガルザゲシ、さらにはグティ人からシュメールを解放したウトゥ・ヘガルなど、重要な人物が多いことでも知られる。

●ウルク第1王朝(BC4000-BC2600)

メスキアッガシェルによって築かれたとされる。伝説的な王朝で、神話的な王が多い。
ウルク第1王朝の王であるギルガメシュは、都市国家キシュを打ち破ったと言われている。
ギルガメシュの活躍は、「ギルガメシュ叙事詩」に物語としてまとめられ、現在でも親しまれている。

●ウルク第2王朝(BC2600-BC2400)

ウルク第2王朝の最初の王であるエンシャクシュアンナは、「国土の王」を自称した。
これは人類が初めて「都市の王」ではなく、「領地の王」を名乗った瞬間であった。
その他にも、ルガルキギンネドゥドゥは、100年にも及んだ「ラガシュ・ウンマ戦争」においてラガシュ側に付き、漁夫の利を得たという。

●ウルク第3王朝(BC2400-BC2350)

ウルク第3王朝の王は、ルガルザゲシ一人と言われている。
ルガルザゲシは、元はウンマの王であったという。ウルクを征服した後、ウルク王を名乗った。
彼はシュメールの都市国家のほとんどを手中に収めたが、後にアッカド王サルゴンに敗れ、ウルクはアッカド帝国が支配することになる。

●アッカド帝国時代(BC2350-BC2250)

アッカド王サルゴンは、シュメールのほぼ全域を支配した。
アッカド帝国の支配下においても、ウルクは重要な都市であったと考えられる。

●ウルク第4王朝(BC2400-BC2350)

アッカドが滅びた後、しばらくの間、力を持っていたと考えられている。
後にグティ人に侵攻され、無政府状態の暗黒時代が幕を開けることとなる。

●グティ王朝時代(BC2200-BC2070)

アッカド帝国崩壊と共にメソポタミアに侵入したのが、グティ人である。
彼らはグティ王朝を建て、シュメールの都市国家のほとんどを支配した。
グティ王朝時代は混乱の時代とも言われ、無政府状態に等しかったと考えられる。
この時代、シュメール王名表に「誰が王で、誰が王でなかったか」と記されていたことからも、当時の様子がよくわかる。

●ウルク第5王朝(BC2070-BC2050)

ウルク第5王朝の王は、ウトゥ・ヘガルただ一人である。
ウトゥ・ヘガルは、暴政を布いていたグティ人からシュメールを解放したとされる。
ウトゥ・ヘガルの死後は、その近親者と考えられているウルの将軍、ウル・ナンムがウル第3王朝を起こし、ウルクはその支配下に入った。

●ウル第3王朝時代(BC2050-BC1950)

ウル第3王朝時代には、ウル・ナンム法典と言われる世界最古の法典が出来るなど、文明の発展が進んだ。

●イシン第1王朝時代(BC1950-BC1860)

ウル第3王朝が弱体化すると、群雄割拠の時代が到来した。
イシン・ラルサ時代と呼ばれるこの時代、ウルクはイシン第1王朝の支配下にあった。

●ウルク第6王朝(BC1860-BC1800)

イシンの弱体化に伴いウルクは独立を果たす。
しかし、実態はラルサの属国とも言える状態であった。
バビロン第1王朝の台頭に伴い、バビロンと結んでにラルサに対抗したものの、敗北する。
ここに独立国家としてのウルクは滅亡した。

●その後のウルク

独立国家としてのウルクは滅亡したものの、その後もウルクは経済的に重要な拠点であり続けた。
バビロニアやアッシリア、マケドニアなどの国家もウルクを重要視し、活用した。
サーサーン朝の支配下に入るとウルクは放棄され、衰退していった。