2017年3月7日火曜日

南詔

ownwork(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e9/Tang_Dynasty_in_the_8th_century_ja.svg/2008pxTang_Dynasty_in_the_8th_century_ja.svg.png)




年代:AD738-AD937頃

●裏切りを繰り返し、勢力を広げた王国「南詔」

中国から東南アジアにかけて存在した王国。
最盛期には唐を追い詰め、インドシナ半島の一部を征服したものの、クーデターによって滅亡してしまう。

南詔は、当初は雲南に存在していた「六詔」という政治組織であった。
738年、皮羅閣という人物が唐の援助を得て、六詔の実権を握った。皮羅閣は唐より雲南王に冊封されたため、この年が南詔の建国年として知られている。

南詔の勢力拡大に伴い、唐と南詔の関係が悪化し始めたため、南詔は吐蕃と同盟関係を結び、唐に対抗した。
しかし、吐蕃の勢力拡大を危惧した唐が南詔への懐柔工作に乗り出すと、南詔王である異牟尋は吐蕃を裏切り、吐蕃領に攻め入った。

唐と吐蕃の衰退に乗じ、南詔は唐との同盟を破棄。成都を占領し、略奪の限りを尽くした。
その後は東南アジア(インドシナ半島)に侵攻して領土を広げ、南詔王世隆は皇帝を名乗った。

しかし、9世紀に入ると南詔では権臣が権力を握り、王は傀儡と化してしまう。
902年、鄭買嗣の起こしたクーデターにより王室関係者のほとんどが殺され、南詔は滅亡した。

●滅亡後

南詔の滅亡後、鄭買嗣は皇帝に即位し、大長和を建てた。
まもなく大長和やその他の後継国は滅亡し、大理国が建国されることになる。